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ラツィオの優勝から20年 クラニョッティ元会長が語る「ペルージャの雨の日」の記憶

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ラツィオが2000年にスクデットを獲得してから20年が経った。当時の会長であるセルジョ・クラニョッティがCorriere dello Sportに対して、優勝が決まった5月14日の記憶を語った。

「ペルージャの雨の日」の記憶

1999-2000シーズンの最終節、ラツィオがスクデットを獲得するためには、ユベントスがアウェーのペルージャ戦で敗戦することが絶対条件だった。ラツィオはレッジーナに勝利し、荒天によって中断していたユベントス対ペルージャの試合結果を2時間待った。そして、ペルージャが1-0でユベントスを破ったことでラツィオの優勝が決まった。

「それは最高の感情で、また全く予想できないものだった。なぜなら最終戦の前まで誰もがラツィオのスクデットを諦めていたからだ。アウェーのペルージャ戦はユベントスにとって難しくないものだと思われた。まるでスクデットは保証されているかのようだったね。あの日のことを今でも思い出す。私はシーメンス社とスポンサー契約を結んだばかりで、もう少し待てばタイトル制覇者としてより高額な契約料を要求できたはずだが、もうシーズンは終わっていたと思っていたんだ」

「ディレクター、妻、そして私たちの友人はスタジアムのメインスタンド上段に座っていた。そこではユベントスの試合のラジオ中継が大音量で行われていて、頭の奥まで響くほどうるさかった。放送はペルージャが既に1点をリードしていたところから始まった。あの時の祈る気持ち、不安、そしてファンであふれたオリンピコのピッチをよく思い出す。結末を見届けるのにふさわしい場所だった」

「最後の最後まで苦しみ、予測不能になるのはこのクラブの歴史の一部だと思う。私はユベントス対ペルージャは引き分けでもかまわないと思っていた。ユーベとのプレーオフ(2005年までは、勝ち点で並んだチームがタイトルや欧州大会出場権、残留を争うためにプレーオフが行われていた)には自信があったし、準備はできていた」

当時の移籍交渉について

ラツィオはかつて元ブラジル代表のロナウドとの契約に近づいていたが、土壇場でインテルとの競争に敗れて同選手を取り逃してしまった。

「ロナウドはほぼ我々の手中にいたと思っていたから、彼を逃してしまったのはとても残念だ。(当時のインテルの会長)マッシモ・モラッティは抜け目なく、すぐに契約をまとめたんだ。我々はブラジルにいる多くの利害関係者と必死に交渉した」

「ラツィオはロナウド以外のほとんどのターゲットと契約することができた。ただ、ニコラ・アネルカは練習場を訪れたにも関わらず契約には至らなかった。また、ズデネク・ゼーマン(1994年から1997年までラツィオを指揮)はフォッジャのホセ・チャモを望んだため、私にチーロ・フェラーラの獲得を止めさせた」

「ロベルト・マンチーニの獲得は大当たりだった。彼はチームに強いメンタリティを与えてくれた。スヴェン・ゴラン・エリクソンが去った後、私は彼をディレクターにするつもりだった。実際に彼はクリスティアン・ビエリをインテルに移籍させるなど、いくつかの移籍交渉を行っていたよ。当時、シモーネ・インザーギが優秀な監督になれるとは誰も思っていなかったが、ピアチェンツァにいたシモーネを欲しがったのはマンチーニだったんだ」

「常にタッチライン際に立ち、選手に対して大声で叫ぶシモーネのスタイルはとても好きだ。彼は選手としてはとても内向的に見えたが、今のラツィオを作ってきたし、そこにいるだけの資格がある」