やや日刊ラツィオ

ラツィオのニュースをお届けするブログ。やや日刊であり、ほぼ週刊。

ラツィオが生まれた日から今日まで

西暦1900年の今日、ラツィオが誕生しました。

どのようにSSラツィオが作られ、ASローマとの因縁が生まれたのかなど、今日までの道のりを遡ります。

ラツィオが生まれるまで

120年ほど前のローマに、夏には水泳やカヌーを楽しみ、冬には陸上競技をして過ごす9人の若者がいました。

ある年、街をあげてのマラソン大会の開催が決まりましたが、これに出場できるのは、企業やクラブに属している選手だけでした。

そこで若者たちは大会に参加するために、自らで「ラツィオ・アスレティック・クラブ」を結成したのでした。

これが、後のSSラツィオです。

青と白のクラブカラーの由来

f:id:acidrum:20180109204029p:plain クラブカラーには、オリンピック発祥の地であるギリシャの国旗にちなんで青と白が選ばれました。

当時のラツィオは、様々なスポーツを行う集団だったために、スポーツの総合祭典であるオリンピックがテーマにされたのだと考えられています。

ギリシャを彷彿とせる青と白の縞模様と、ローマのシンボルである鷲をかたどって、クラブのエンブレムが生まれました。

サッカークラブへ

創設の次の年、パリのラシン・クラブでプレーしていたブルート・セゲッティーニというサッカー選手によって、ラツィオにもサッカーの文化が持ち込まれます。

サッカークラブとしてのラツィオの初めての試合はミラノで行われたヴィルトゥスというクラブとの対戦で、サンテ・アンチェラーニのハットトリックにより、3-0で勝利を収めました。

宿敵との因縁

f:id:acidrum:20180109203714j:plain 時は過ぎ、1927年。国家ファシスト党を率いて、独裁政権を敷いていたムッソリーニがファシズム推進のために首都のクラブを全て解散させ「ASローマ」という唯一の存在を作ろうとします。

多くのクラブが消滅し、ASローマに併合される中、ただラツィオのみがこの政策に反発しました。

幸い、スポーツ政策に強い影響力を持っていたジョルジョ・ヴァッカーロ将軍がラツィオのファンだったことで解散は免れました。

セリエAの名門に

f:id:acidrum:20180109203618j:plain 1929年に行われたセリエAの第1回大会にラツィオも参戦し、ボローニャとのデビュー戦を3-0で勝利します。

1974年には初めてのスクデットを獲得し、2000年にはネスタをはじめとした多くのスター選手を擁し、2度目のスクデットを獲得。

今日のイタリアでも大きな影響力を誇り続けています。